日本語と論理

数式を言葉で表現するのは書く側にとってはそれほど難しいことでは有りません。
逆に言葉で書かれたことを理解する方が難しいので、数式というものが使われるようになったのだと私は思っています。
だって、頭の中ではなんだかんだ言っても言葉で考えているわけで、別に数式で考えている訳では有りませんから。
また、私はもともと、数学といっても論理学を主にやっていたので数式はあまり使っていませんでした。
どうも日本語は論理的じゃないから日本人は論理が弱いなどと言う方がいるみたいです。
そういう方はたいがい英語はその点論理的だなどとおっしゃる。
しかし、日本語が論理的じゃないのは、その日本語を使っている人間が論理的じゃないだけで、別に言語の問題じゃないと思います。
確かに自然言語(日本語や英語を含む言語全般)は曖昧な事を表現できます。
しかしそれは人工言語(数式やコンピュータ言語など)にくらべてメリットであって、決して曖昧にしか表現できないという物ではないと思います。
曖昧にしか表現できないのは、言葉を使っているその人が曖昧にしか理解していない、または曖昧にしか考えていないからです。
前に、仕事の現場で、訳のわからない水掛け論を見たことが有ります。
責任者A氏:「その作業は簡単なのかね?」
作業担当者B氏:「いいえ、この作業は時間がかかります。」
A氏:「簡単な作業だと誰かが言っていたが」
B氏:「いいえ、簡単じゃありません」
A氏:「簡単じゃないというのはどう簡単じゃないんだ」
・・・
この二人の間で「簡単」という言葉が未定義のまま会話が進みます。
いつまでたっても、結論が出るわけがありません。
実はA氏は「1週間でできることは簡単だ」と思っていて
B氏は「3日もかかるんだから簡単ではない」と思っていたとすると
永遠にこの二人の会話からは何も実を結びません。
小学生が、「トラックは大きい」、「いいや(ジャンボより)小さい」という訳のわからない会話をしているのと全然違いがありません。
これを大の大人が言っているんだから頭がいたくなります。
形容詞特に比較を表す言葉は何に対しての比較なのかが明確でない場合全く意味をなさないというのがわかっていないのでしょうか?
また、むやみに最上級を使いたがる人もいます。
「絶対」とか、「最低」とかどちらも本当に絶対なのか?本当に最低なのか?とただすと、全然絶対でも最低でもないことが多いです。
自分を基準にとってすべてを計って、人も同じ基準を持っていると思ってしまうおこがましさがこの表現にはあふれています。
どちらにしても、言葉を曖昧にしているのは使っている本人であって、言葉の問題ではないと私は考えます。
そうでなければ、日本にきら星のごとく輝く数学者や科学者はなぜあんな論理的思考ができるのでしょう。
彼らだって考えているとき使っているのは母国語である日本語に違いないのですから

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